2008年1月31日木曜日

寿司屋の策略

以前、2001年にオープンした大型スーパーの惣菜部でオープンから5年間働いていた。午前8時から12時までそこで働き、そのまま川端通りを自転車で突っ走り12時半に店をオープンする。その突っ走る自転車走行中にパンをかじりながらのツールドフランスさながら(?)の昼食、と実にムチャな事をやっていたものだと今になって思う。

惣菜部というのはパック売りの弁当、巻き寿司、握り寿司、ちらし寿司、サラダを加工する所だ。最初に配属されたのが巻き寿司担当だった。

11月にオープンしたこの店が3ヶ月後の節分でパニックにならないはずが無い。
この日に課せられた巻き寿司のノルマは1時間に50本、8時間労働で一人400本を巻く事だった。
兎に角この日は巻いて巻いて巻きまくる。10人程のパートが巻きまくってもこれが又不思議な程売れるのだ。
節分にはその年の恵方を向いて巻き寿司を無言で一本丸かぶりするとその年一年良い年になるそうだが・・・どう考えても寿司屋の策略に思えてならない。日本中の人が一定方向を向かって巻き寿司をモクモクと食べている所を想像すると何だか恐ろしいものがある。

もうすぐ節分。オープン当時ピカピカだった厨房は既に年季が入っているだろう。オープン当時ピカピカだったパートのおばちゃん達同僚もきっと年季が入っている事だろう。

2008年1月23日水曜日

変換装置

N氏のご招待を受け神戸に行ってきた。何年ぶり、いや何十年ぶりの神戸だろう?
N氏自慢のオーディオでレコードを視聴後、有馬温泉に入り、滅多に食べられない様な牛タンに舌鼓、西村コーヒーも飲ませて戴きポートピアホテル16階に宿泊。何十年に一度あるかないかの贅沢三昧だ。
中学を卒業してすぐ仕事を始め、18歳で会社を立ち上げ40歳代で既に500人もの従業員を持つN氏は紛れも無く若い青年実業家だ。

10歳代から20歳代は人にとって何かがむしゃらに頑張れる時だと思う。大抵の人はそのエネルギーを勉強やスポーツに向ける事が多い。目的の到達点を受験に置く学生にとっては志望校に入学する事で既に目的は達せられ、肝心のその先の将来を見失う事も多い様に思う。大学の卒業証書を持っていれば生涯保障付きのサラリーマンになれる、そんな学歴社会は少子化で全学入学時代となり既に終わったはずだ。おまけに入社してもいつその会社が倒産するか又はリストラに遭うかと冷や冷やさせられる時代なのだ。それにも係わらず「受験」と言う切り札を目の前にちらつかせ塾や家庭教師斡旋、高額な勉強教材を売りつけるお受験企業、目が飛び出る程の授業料を要求される私立校は小学生や幼稚園児から子供確保に必死だ。政府は「ゆとり教育は失敗だった!」と一転して国を挙げて小中学生の学力低下を何とか食い止めねばと躍起になっているが、進学塾にとっては棚から牡丹餅の話だ。
何だかね~??と思いながらも勉強嫌いの息子や娘に「受験生なんやからちょっとはまともに勉強せえ!」と言う自分の不甲斐無さが虚しい。

N氏のポルシェに同乗しながら、学歴や学校教育がいかに社会では役に立たないかを再度考える。
むしろ彼はその事を彼自身のエネルギーに変換してきたのかも知れないと、少し無邪気さの残る横顔に垣間見る。エネルギーのある者が持ち合わせる変換装置。

今年の秋、三度目のランディ・ウェストンのコンサートを上賀茂神社で行う。
そのランディと会った方からのメッセージは「昨年、マックス・ローチさんや息子さんが亡くなられ、少しお気を落されていらっしゃるご様子でしたが、だからこそ、残り少ないジャズの歴史の生き証人として、今年で82歳になるが、私は頑張らなければならない!と大変使命に燃えていらっしゃいました。」との事。

ランディ・ウェストン、82歳の高齢でも未だ彼のピアノ演奏は進化し続けている。悲しみもエネルギーに変えてしまう変換装置を彼もまた持ち合わせているのだ。

2008年1月17日木曜日

平成の成人

平成生まれの子供が二十歳の成人式を迎える時代だ。先日の読売新聞では”「反抗」にあこがれぬ若者”と言う記事が載っていた。ハンカチ王子やハニカミ王子など、イケネンで礼儀正しく実力も十分な優等生をオバチャン達が絶賛するのは解るが同世代の男子の共感も得ていると言う。

この記事を書いた記者は40歳。自分の学生時代を思い返せば憧れたのは優等生ではなく大人や社会に立ち向かう様な人だったと言う。又もう少し上の世代ならゲバ棒で権力と闘った世代だ。いずれにしても社会や大人に反抗する年頃と言うのがある時期あって当たり前のはずが、現在はちょっと事情が変わってきている様なのだ。

これは昔に比べ親や教師が優しくなり脅威ではなくなったから。むしろ大人は子供達にとって良き理解者であり協力してくれる存在なのだ。



反抗する若者と言うのは時にはとんでもない事をやらかしかねない。それが無くなり優しい穏やかな男子が増えたのだから社会が平和になった象徴かもしれないが、社会がいつまでも平和である保障は無い。人生の困難に立ち向かい、一家の大黒柱として、これからの社会を作っていく若者として、本当にこれで大丈夫?と少し心配になってしまう。これは我息子を見ていても思う事でもある。

優等生でもなければイケメンでもないので、~王子とは程遠い存在なのだが、多少なりとも骨太な男子になってもらいたいものだが、果たしてどうなる事やら・・・?

2008年1月12日土曜日

ジョージ・ルイス

墓地への行き帰りの行進音楽は、黒人の現実的な態度を表している。根は過去にあった。奴隷労働、綿畑、船着場、そして重荷からの開放としての死。飾りなく死を見るリアリズムだった。それは綿畑の奴隷の現実であり、そばで父か母か兄弟姉妹か友が死ぬと二重に重荷を感じる人の現実だった。喪失と重荷の二重の悲しみ。死ななきゃ重荷は下ろせない。流す涙があり、嘆き悲しむ声あり。それでも綿畑はずっと続いて列をなし、背中の袋は綿で一杯にしなければならず。だから歌わなきゃやっていられない。しゃべる話も必要だし、重みに耐える癒しも必要だ。楽しい歌ばかりじゃない、嬉しい話ばかりじゃない。
兄弟は死んだ、今は神のもとにいる。兄弟に苦しみはもうない。悲しみが兄弟の苦しみを振り払ってしまった。未来の時間はずーっと彼らの前にある。喜び、悲しみ、そして十字架と一緒にある。
「帰りは若いやつらを楽しませてやろう!」

これは「ジョージ・ルイス」の一節である。ニューオリンズの葬儀は音楽葬で、墓地への行きは悲しみに満ちたメロディーで、葬儀が終わり帰りは陽気な演奏で行進される。死体が埋葬され会葬者とミュージシャンが墓地を去る時、死者は神の手の内にある、と誰もが知っている。だから帰りは生きている若いやつらを幸せにするほうがいいのだ。

この本はニューオリンズジャズのクラリネット奏者、ジョージ ルイスの伝記「Call Him George]の翻訳本「ジョージ・ルイス」であるが、音楽のみならず彼やその家族の生活そのものを書き記した伝記なのだ。それは彼の曾祖母が西アフリカのセネガルから奴隷船でニューオリンズに連れて来られた時代にさかのぼり、差別、貧困、病気、事故、度重なる家族の死などの苦難な生活、そしてその中から生まれた彼の音楽を知る事になる。

当時のニューオリンズを知る事はジャズの発祥を知る事でもある。ジャズミュージシャンやジャズファンは勿論の事、興味をお持ちの方には是非読んで戴きたい一冊である。(書店販売は無いが、数がまとまればラッシュライフから取り寄せも出来る。)














 

2008年1月7日月曜日

砂の器

今年、息子のお年玉の使い道はipodだった。結局選んだのがSONYの製品なのでデジタル・ウォークマンと呼ぶのか、兎に角、ダウンロードすればCDを買わなくても簡単に好きな音楽が手に入る。音質がどうだとか、レコード盤はオリジナルか、再発か、など無縁の世界の代物だ。

年末大掃除に母が何やら押入れをごそごそ掃除して要らない物を放り出した中に「砂の器・松本清張」の古い本が出てきた。

この本を見て思い出すのは、子供の頃に母に連れられてこの映画をロードショーで見た事だ。小学生だった私には何やら暗い映画でストーリーが分からず途中で眠り込んでしまい、目覚めた時には母の「素晴らしい映画や!」と大絶賛する姿だけが目に入った。その時の素直な感想は「何でもうちょっと子供でも見て楽しめる映画を選んでくれへんねん?」と言う事だった。

そんなぽっかりと空いた私の「砂の器」を取り戻すべく、正月から一気にこの古本を読み急いだ。
映画ではハンセン病に対する根強い差別を批判した作品として大きく評価された様だが、原作は刑事の粘り強い捜査が事件を解決していく所にスポットが当てられている。それが又、あまりにも偶然すぎる(?)捜査解決の鍵だったりするので、読みながら「それは無いわ」「ありえへん」と思わずつぶやいてしまうのだ。
結局読み終えた後も、あの時母が絶賛した気持ちは私には未だ理解できていない。

ただ、昭和36年に発行されたこの本の中にはファックスは勿論、電話すら出てこない。だから通信手段は手紙だったり小包だったりする。
買ったばかりのデジタル・ウォークマンで嬉しそうに音楽を聴く息子を横目につくづく時代の変化の早さを思う。「ありえへん」。

2008年1月1日火曜日

初夢

新年明けましておめでとうございます。

リアルな初夢を見た。アブさんこと、アブデゥーラ・イブラヒムさんの夢だ。2006年にコンサートを企画した時にお会いしてから1年以上会ってないのに、夢の中の彼はあまりにもリアルな姿での登場。夢から覚めるとまるで久々に会ったかの様な気分だった。
しかも何故かその夢の中では、私の作ったアプリコットのタルトを二つも食べて、その後歯が痛いとうなりだし、歯医者に行って総入れ歯になるという・・・何ともヘンテコリンな夢だった!

お正月、子供ができる前の7年間は毎年滋賀県湖北の余呉湖にサイクリングに行くのが恒例だった。
手足の先は寒さでジンジンと痛み、頭の上には雪を積もらせ、無言でもくもくと走り続ける極寒の中でのサイクリング。

ここ数年は滋賀県五個荘にある別荘で大晦日から元旦の朝までを過ごし、昼からの営業時間までに京都に戻って来ると言うハードスケジュール。

しかし今年は天気予報で雪だ雪だと言うもんで、あっさりと旦那も諦めがつき、久しぶりに京都で年を越す事になった。
例年よりのんびりとした年始に見る今朝の美しい青空、雪などかけらも無い。「神様は私に見方した」と確信し、ニンマリと笑う。

今年もよろしく。