2011年11月13日日曜日
セカンドハウス
来月に大学時代の友人数人が京都で集まるという事になりホテルの手配をした。
12月の初め頃といえば京都はまだ紅葉で観光シーズン真っ只中。なかなかホテルの予約が取れない。
何件かホテルに直接電話をかけると既に満室だという。しかしインターネットで探すと同じホテルでもそれがとれるのだ。旅行会社が早い時期に部屋を確保しているのだろう。ではインターネットを使わない人はホテルの予約をどうするのか?勿論旅行会社の窓口に直接行く事になるのだろうが、ホテルに直接電話で問い合わせて断られ諦める人も少なくないのではないかと考える。やはり世の中はネット社会なのだとつくずく思う。
「そうだ京都に行こう」というJR東海のキャッチコピーにもじって「そうだ京都に住もう」という本が売れている。作者の永江朗さんは茶室をもつ事を主目的にセカンドハウスを探しておられた。最初はマンションや借家も選択肢の中に含まれていたのだが、ルームマーケット平野さんとの出会いから古い町家を買い、使い勝手の良い状態にリフォームして使うとい方法に決まったのだ。
例えば田舎好きの人なら週末はのどかな田舎で家庭菜園でもしてみるというのが夢だろう。海好きの人なら週末はサーフィンか釣三昧か?しかし永江さんはそんなアウトドア派ではない。かといって東京の都会のマンション暮らしに満足している訳でもない。京都は自転車さえあれば大抵どこでも行けてしまえるその町のコンパクトさと山や川が身近にある自然豊かな風景、そして神社仏閣は勿論、美味しいレストランや喫茶店、パン屋に本屋と見所は豊富だ。そして週末をセカンドハウスで過ごしたい人の夢を可能にしているのがインターネットの普及。職種にもよるのだが、パソコンさえあれば急ぎの仕事はどこにいてもできてしまう人も多くなったのだ。
我が家も滋賀の田舎にボロやのセカンドハウスを持っている。ウチの旦那は定休日の前に日の夜には自転車で
70キロ離れたその家に向け出発する。我が家のセカンドハウス活用の主目的はその行程のサイクリングにあるようだ。パソコンは勿論、テレビ、電話も無いので行ってしまえばかなり現実逃避もできる。
変わることの便利さと不自由さが常に重なり合って時代が流れていると思う今日この頃だ。
2011年10月25日火曜日
スティーブ・ジョブズ
今月5日に死去した米アップルのスティーブ・ジョブズ前CEOの公式伝記が発売され話題になっている。
ジョブズ氏と言えばパソコンの開発やiPod,iPhone,iPadなど全世界の人々が虜になるユニークな発想の商品を作り上げた人だ。今ではパソコンは当たり前の様に私達が日々使っているが、ほんの少し前には存在すらしなかったモノなのだ。その発展の早さと全世界に及ぼした影響の大きさは計り知れないものだろう。
が、当店の様にレコードを真空管アンプで聴かせる店の店主もアナログならばそこに通うお客さんもかなりの割合でアナログ好きの方が多いように思う。
レコード屋を回っては次々にレコードを買いあさる人の事をビニールジャンキーと言うのだそうだが、大抵はCDには殆ど興味が無くダウンロードなんてどこの世界の話?という事になる。このテの人たちにとってはiから始まる発明品の数々も無縁の世界の事なのだ。
そして我が家の18歳になる娘はと言えば高校を卒業したのを機に携帯電話を解約した。「私には必要無いから」と。服装もモンペにジンベ姿で自転車に乗って何処でも行く。食事は体に優しい食事と言い、パスタやハンバーグはあまり喜ばない。生まれてきた時代を間違えたんだと祖母に笑われている。
さて、ジョブズ氏だが実は若い頃から禅に傾倒した仏教徒であるらしく、禅宗の僧侶、乙川弘文を精神的指導者と慕っており、結婚式にも招待したとか。禅だけではなく日本の文化に深い関心を持ち、晩年まで家族旅行でしばしば京都を訪れていたそうだ。食生活ではベジタリアンで、日本食を好み、特に蕎麦が好物とか。
全世界に多大な影響を及ぼす発明家と時代に逆行のアナログ人間の接点が見え隠れする事が面白い。
2011年9月9日金曜日
秋晴れの空
秋晴れのこんな日には決まって広島の西条を懐かしく思い出す。
高校卒業後、二年間だけ東広島の西条にあった広島農業短期大学という学校に行っていた。
広島市内から40分JRに乗り、更に30分程バスに乗り継いだ小高い丘の上にある小さな学校。
卒業後は京都に戻り現在まで実家に住んでいるので、私にとって実家以外の場所で生活したのはあの二年間のみという事になる。そのせいか、あの短大時代の二年間は何か特別な時間であり、空の色、木々の匂い、星の数、水の冷たさ、当たり前の事が何か全て違って思える時間と空間。村上春樹の1984年から1Q84年に迷い込んでしまった様な異次元のパラレルワールド。まあそこまで言えば言いすぎかも知れないが、ふと自分が立ち返りたくなる場所と時間が西条にはある気がする。
先日その大学でお世話になった恩師、早田保義先生の訃報が届いた。57歳という若さだ。
今更ながら先生の研究を調べてみると、植物の香りとその機能性や利用実用性などの研究をされていた様だ。又社会活動ではNPO法人「森のバイオマス研究会」の理事長として資源循環型の地域づくりと森・里山の再生と利用に関する活動に取り組んでおられた様だ。
平成18年からは明治大学農学部の教授として、22年には農場長として活躍されていた。
そんな事も何も知らず、随分音信不通で失礼な事をしてしまっていた。先生の研究は農業からは縁遠い生活をしている私でも興味を持てる内要ではないか。聞いてみたいこと、話しておきたいことが山積する。今更悔やんでも後悔先に立たず。無念でならない。
高速道路から降りていく不思議な螺旋階段なのか?あるいはドラえもんがポケットから取り出す「どこでもドア」なのか?
秋晴れのこんな空の日にはどうか私を早田先生のいるあの西条の小さな学校の研究室に連れて行って下さい。
高校卒業後、二年間だけ東広島の西条にあった広島農業短期大学という学校に行っていた。
広島市内から40分JRに乗り、更に30分程バスに乗り継いだ小高い丘の上にある小さな学校。
卒業後は京都に戻り現在まで実家に住んでいるので、私にとって実家以外の場所で生活したのはあの二年間のみという事になる。そのせいか、あの短大時代の二年間は何か特別な時間であり、空の色、木々の匂い、星の数、水の冷たさ、当たり前の事が何か全て違って思える時間と空間。村上春樹の1984年から1Q84年に迷い込んでしまった様な異次元のパラレルワールド。まあそこまで言えば言いすぎかも知れないが、ふと自分が立ち返りたくなる場所と時間が西条にはある気がする。
先日その大学でお世話になった恩師、早田保義先生の訃報が届いた。57歳という若さだ。
今更ながら先生の研究を調べてみると、植物の香りとその機能性や利用実用性などの研究をされていた様だ。又社会活動ではNPO法人「森のバイオマス研究会」の理事長として資源循環型の地域づくりと森・里山の再生と利用に関する活動に取り組んでおられた様だ。
平成18年からは明治大学農学部の教授として、22年には農場長として活躍されていた。
そんな事も何も知らず、随分音信不通で失礼な事をしてしまっていた。先生の研究は農業からは縁遠い生活をしている私でも興味を持てる内要ではないか。聞いてみたいこと、話しておきたいことが山積する。今更悔やんでも後悔先に立たず。無念でならない。
高速道路から降りていく不思議な螺旋階段なのか?あるいはドラえもんがポケットから取り出す「どこでもドア」なのか?
秋晴れのこんな空の日にはどうか私を早田先生のいるあの西条の小さな学校の研究室に連れて行って下さい。
2011年8月26日金曜日
2011年8月17日水曜日
我が家の猫事情
我が家にはかなりご高齢の猫が一匹いる。子ども達がまだ保育園に行っていた頃にやって来たのでウチに来て既に13年。来た時には成猫だったので確かな年齢は分からない。誕生日も分からないので誕生日祝いも勿論したことがない。
若い頃は借りてきた猫の様におとなしくて「にゃ~」とも「しゃ~」とも言わず、おまけに怖がりで、家からは殆ど外に出ることもない引き篭り猫。要するに存在感があまり無かった訳だ。
それがいつの頃からか鳴き声に変化が現れた。鳴くというより低音の唸り声。「にゃ~」ではなく「びゃ~」。お腹が減ると唸りまくる。とことん貰えるまで唸りまくる。夜中であろうが早朝であろうが耳元で唸る。それでもダメなら顔の上であろうが乗り上げてくる。「どうだ参ったやろ~」と顔の上にお尻を乗せる。・・・はい参りました。とこちらが降参して眠い目をこすりながら缶詰めの餌をやるまでその攻撃は止まない。もうこうなったら化け猫同然だ。
そんなある日、ガレージから車を出す時に誤って猫の足をひいてしまった。ひき殺したかと思う程悲壮な鳴き声が車下から聞こえ真っ青になり車の下を覗くと足を引きずりながら悲しげな目でこちらを見ている。
「ああ生きていてくれた。」と普段の恨み辛みも忘れて素直に喜んだ。そしてひいた負い目でまぐろの刺身など買ってきて食べさせ、どうか今回の事は穏便に取り計らって下されともみ手すりすりお願いなどした訳だ。
しかしながら老化は足からというのは人も猫も変わらない様で、その後何回も脳震盪を起こして倒れ、トイレは垂れ流し状態になり、もう今度は「どうかご先祖様そろそろお迎えを・・・」と願ったりもするようになってきている。
そして私の母はそんな年老いた我が家の猫を横目で見て、いずれ訪れる自分の老化と家族の対応を疑似体験しているようだ。
若い頃は借りてきた猫の様におとなしくて「にゃ~」とも「しゃ~」とも言わず、おまけに怖がりで、家からは殆ど外に出ることもない引き篭り猫。要するに存在感があまり無かった訳だ。
それがいつの頃からか鳴き声に変化が現れた。鳴くというより低音の唸り声。「にゃ~」ではなく「びゃ~」。お腹が減ると唸りまくる。とことん貰えるまで唸りまくる。夜中であろうが早朝であろうが耳元で唸る。それでもダメなら顔の上であろうが乗り上げてくる。「どうだ参ったやろ~」と顔の上にお尻を乗せる。・・・はい参りました。とこちらが降参して眠い目をこすりながら缶詰めの餌をやるまでその攻撃は止まない。もうこうなったら化け猫同然だ。
そんなある日、ガレージから車を出す時に誤って猫の足をひいてしまった。ひき殺したかと思う程悲壮な鳴き声が車下から聞こえ真っ青になり車の下を覗くと足を引きずりながら悲しげな目でこちらを見ている。
「ああ生きていてくれた。」と普段の恨み辛みも忘れて素直に喜んだ。そしてひいた負い目でまぐろの刺身など買ってきて食べさせ、どうか今回の事は穏便に取り計らって下されともみ手すりすりお願いなどした訳だ。
しかしながら老化は足からというのは人も猫も変わらない様で、その後何回も脳震盪を起こして倒れ、トイレは垂れ流し状態になり、もう今度は「どうかご先祖様そろそろお迎えを・・・」と願ったりもするようになってきている。
そして私の母はそんな年老いた我が家の猫を横目で見て、いずれ訪れる自分の老化と家族の対応を疑似体験しているようだ。
2011年8月12日金曜日
アブさん来日
8月6日、東京コットンクラブのアブドゥーラ・イブラヒム(アブさん)のコンサートに行って来た。
東京へ行くのはナント27年ぶり!いやいや東京に限らずとも行った事のない所も多いし長らく行っていない所も多い。思い返せばラッシュが現在の場所(出町柳)に移転して以来23年、行動範囲が左京区周辺と滋賀県の五個荘(我が家の別荘がある場所)にほぼ限定されている。
うちの旦那は出不精なのか引きこもりなのかハタマタ病気なのか?とにかく人の多い所には足がどうしても向かない様で、今回もアブさんのコンサートがあるのは随分前から聞いてはいたのだが、東京?、ライブハウス?と聞いただけで「無理~」という事で直前まで行かないつもりだったのが、初日の公演に行って来たo氏からアブさんが「何故哲也は来ないのだ?病気か?」と聞かれ返答に困ったと聞き、これは何がなんでも行かねばと決意したのだろう。
突然のサプライズ訪問にアブさんも大喜び。コットンクラブのファーストステージの演奏をうっとりと聴き、とんぼ返りの日帰りで帰って来た。
さて次回東京に行くのは何年後になるのだろう?その時はもう少しゆっくりと時間をかけて東京見物でもしてみたいものだ。
東京へ行くのはナント27年ぶり!いやいや東京に限らずとも行った事のない所も多いし長らく行っていない所も多い。思い返せばラッシュが現在の場所(出町柳)に移転して以来23年、行動範囲が左京区周辺と滋賀県の五個荘(我が家の別荘がある場所)にほぼ限定されている。
うちの旦那は出不精なのか引きこもりなのかハタマタ病気なのか?とにかく人の多い所には足がどうしても向かない様で、今回もアブさんのコンサートがあるのは随分前から聞いてはいたのだが、東京?、ライブハウス?と聞いただけで「無理~」という事で直前まで行かないつもりだったのが、初日の公演に行って来たo氏からアブさんが「何故哲也は来ないのだ?病気か?」と聞かれ返答に困ったと聞き、これは何がなんでも行かねばと決意したのだろう。
突然のサプライズ訪問にアブさんも大喜び。コットンクラブのファーストステージの演奏をうっとりと聴き、とんぼ返りの日帰りで帰って来た。
さて次回東京に行くのは何年後になるのだろう?その時はもう少しゆっくりと時間をかけて東京見物でもしてみたいものだ。
2011年7月29日金曜日
2011年5月7日土曜日
ekaya
知り合いのある一軒の家が今まさに潰されている。家の周りは足場とテントで覆われショベルカーで道路側の前半分は既に瓦礫と化している。
彼のおじいさんは有名な宮大工だったそうで、100個あったという造りつけの箪笥の引き出しや1つ10万円は下らないという襖の建具、床の間や工夫を凝らしたお庭など。素人が見てもその立派な品々が瓦礫の山になる瞬間。私にはそれは東北の震災と津波に飲み込まれていく家々を思わせる。
店への通勤経路上にあるこの家の解体はいやでもはぼ毎日見ることになり、時には夢の中にまで現れる。
当たり前の事だが家と言うのはそこに住む家族の生活があり、歴史がその中で生まれる。
その中には小さな社会がり、その家族でしか分からないしきたりやルールが生まれる。鍋の洗い方はどうするだとかこの季節には梅干を漬けたりだとかそんな些細な事柄から人の生死までを家は見守り支えている。
震災後の放射能汚染問題でその土地にとどまるか立ち去るか、福島やその他の近隣の人々は苦渋の選択を迫られている。住み慣れた土地に愛着は当然ありそこに根付いた生活を全て捨てて生きていくという事の悲痛な思い。しかしそれに勝るほどの放射能の恐怖。
いったい人間は何を求め、何をしているのだろう?考えれば考えるほど分からなくなる。
お客さんに蕨(わらび)をいただいた。灰が無かったので炭酸であく抜きした後かつおだしで炊いた。その翌日筍をいただき糠であく抜きをした後これから筍ご飯を炊き上げる予定。だれが考え出したのかこんな各々の料理方一つにも伝達されてきた日本の歴史がある。おいしくできれば先月福島から京都にやって来た友人に届けよう。春の香りと共に。
彼のおじいさんは有名な宮大工だったそうで、100個あったという造りつけの箪笥の引き出しや1つ10万円は下らないという襖の建具、床の間や工夫を凝らしたお庭など。素人が見てもその立派な品々が瓦礫の山になる瞬間。私にはそれは東北の震災と津波に飲み込まれていく家々を思わせる。
店への通勤経路上にあるこの家の解体はいやでもはぼ毎日見ることになり、時には夢の中にまで現れる。
当たり前の事だが家と言うのはそこに住む家族の生活があり、歴史がその中で生まれる。
その中には小さな社会がり、その家族でしか分からないしきたりやルールが生まれる。鍋の洗い方はどうするだとかこの季節には梅干を漬けたりだとかそんな些細な事柄から人の生死までを家は見守り支えている。
震災後の放射能汚染問題でその土地にとどまるか立ち去るか、福島やその他の近隣の人々は苦渋の選択を迫られている。住み慣れた土地に愛着は当然ありそこに根付いた生活を全て捨てて生きていくという事の悲痛な思い。しかしそれに勝るほどの放射能の恐怖。
いったい人間は何を求め、何をしているのだろう?考えれば考えるほど分からなくなる。
お客さんに蕨(わらび)をいただいた。灰が無かったので炭酸であく抜きした後かつおだしで炊いた。その翌日筍をいただき糠であく抜きをした後これから筍ご飯を炊き上げる予定。だれが考え出したのかこんな各々の料理方一つにも伝達されてきた日本の歴史がある。おいしくできれば先月福島から京都にやって来た友人に届けよう。春の香りと共に。
2011年4月7日木曜日
桜
東日本大震災からもうすぐ一ヶ月が過ぎようとしている。その津波と原発被害はあまりにも大きくそれまでの平和な東北地方の方々の生活を一変してしまった。
こんな事が本当におこるのだろうか?とテレビや新聞のニュースを見る度に何か鬱々とした気分でやりきれなくなる。
それでも今年も又、京都の桜は見ごろを迎えている。店の前を流れる高野川沿いの桜と雪柳がまぶしいほどに美しい。
被災地で今も避難所暮らしをしている人たちを一挙に大型ヘリコプターで京都に連れてきて、加茂川、高野川の桜の木の下でお花見してもらえたらどれだけ素晴らしいだろう。無理とわかっていてもそんな気持ちで今日も桜を見上げる。
こんな事が本当におこるのだろうか?とテレビや新聞のニュースを見る度に何か鬱々とした気分でやりきれなくなる。
それでも今年も又、京都の桜は見ごろを迎えている。店の前を流れる高野川沿いの桜と雪柳がまぶしいほどに美しい。
被災地で今も避難所暮らしをしている人たちを一挙に大型ヘリコプターで京都に連れてきて、加茂川、高野川の桜の木の下でお花見してもらえたらどれだけ素晴らしいだろう。無理とわかっていてもそんな気持ちで今日も桜を見上げる。
2011年1月18日火曜日
50年の軌跡
先日東梅田にある「ニューサントリー5」というライブハウスに行き「ニューオリンズ・ラスカルズ」というニューオリンズジャズのバンド演奏を聴いて来た。
以前より常連のSさんからこのバンドの話やニューサントリー5の話はよく聞いてはいたのだが、ようやく行く事ができたのだ。
ニューオリンズ・ラスカルズは1961年に早稲田大学出身の音楽好きが集まったアマチュアに拘るジャズバンドで、以来50年間もの間演奏活動を続けている。しかもそれならば、と始めたのがこのニューサントリー5というライブハウスで、1970年にオープンのこちらも老舗のジャズライブハウス。しかも1973年から毎週土曜日に欠かさずラスカルズはこちらに出演し続けている。しかもしかも、100席近くある店内はほぼ満席状態で、これはこの日に限った事ではなく37年間ラスカルズの演奏の日は常に満席なのだと言う信じがたい話を聞いた。出演者と観客とその場所を提供し続けるライブハウス、その三点が一体となった理想の状態を維持しているのだ。
店内は100席近い(確かな客席数は知らないのだが)店内にも関わらず、何故かアットホームな雰囲気がある。それは37年間、店とラスカルズのメンバーとお客さんが育んだ歴史なのだろう。
今年ラスカルズは結成50周年を迎える。メンバーの平均年齢は75歳、店主も常連客たちも同世代の人が多い。店内は年齢を超えて共に音楽を愛し楽しむ人たちで埋め尽くされた素晴らしい活気溢れる空間だった。
皆さん、土曜日に梅田近くに行く事があるならば是非一度立ち寄って欲しい。
http://www.odjc.com/rascals/nor.html
以前より常連のSさんからこのバンドの話やニューサントリー5の話はよく聞いてはいたのだが、ようやく行く事ができたのだ。
ニューオリンズ・ラスカルズは1961年に早稲田大学出身の音楽好きが集まったアマチュアに拘るジャズバンドで、以来50年間もの間演奏活動を続けている。しかもそれならば、と始めたのがこのニューサントリー5というライブハウスで、1970年にオープンのこちらも老舗のジャズライブハウス。しかも1973年から毎週土曜日に欠かさずラスカルズはこちらに出演し続けている。しかもしかも、100席近くある店内はほぼ満席状態で、これはこの日に限った事ではなく37年間ラスカルズの演奏の日は常に満席なのだと言う信じがたい話を聞いた。出演者と観客とその場所を提供し続けるライブハウス、その三点が一体となった理想の状態を維持しているのだ。
店内は100席近い(確かな客席数は知らないのだが)店内にも関わらず、何故かアットホームな雰囲気がある。それは37年間、店とラスカルズのメンバーとお客さんが育んだ歴史なのだろう。
今年ラスカルズは結成50周年を迎える。メンバーの平均年齢は75歳、店主も常連客たちも同世代の人が多い。店内は年齢を超えて共に音楽を愛し楽しむ人たちで埋め尽くされた素晴らしい活気溢れる空間だった。
皆さん、土曜日に梅田近くに行く事があるならば是非一度立ち寄って欲しい。
http://www.odjc.com/rascals/nor.html
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